おいらの場合、親父が転勤族(新日鉄化学)だったので学校の変遷はとてもややこしい

まず、北九州市立守恒小学校校区というものが当時はまだなく(山林だったので)大字石田が山手2丁目と改組されます。最初で最後の一軒家。で、これまで、北九州女子短期大学(守恒2丁目)が廃校されて、北九州市に土地が接収されて出来た、初めてのこのエリアの小学校が、北九州市立守恒(もりつね)小学校であったと。これも、ウィキペディアが必要になるのかな?

で、小学校の1階階段下に、当初「購買」が残っていました。小学校なのに。主に、文房具類を売るはずの店に、なぜか、紙せっけんとか、リリアン編みとかが商品として残っており、購買のおばちゃん自身が、北九州女子短期大学の購買の名残りだったのではないかと、容易に想像がつきます。普通の小学校に、そもそも購買ってないよね。

で、親父は新日鉄化学の下請け企業だったので、それが兄弟げんかで倒産し、会社は、現:新日本熱学の手に渡り、横尾一族はスラッグウール工業所(倒産)から四分五裂し、親父(横尾照雄さん)はどうなったかというと、上京し、親父を救済してくれた、東京・八丁堀の新日鉄化学の嘱託職員として働き始めました。そのため、川崎市高津区宮前平の分譲貸しマンションに越すことになり、おいらは1年だけ、この小学校に通うことになったのです。

http://www.netugaku.co.jp/history/index.html 新日本熱学 80年の歴史

地方からの急激な人口流入で、この小学校にも、プレハブ校舎のとてつもない増築が始まり、運動場で運動が出来ない。そこで昭和55年、富士見台小学校(馬絹・鷺沼地区)から分離独立するために、宮前平小学校が新設校として開校しました。おいらも、そちらに移ることになりました。

日能研(日本能率進学研究会:当時)に入ったけど、神経がダメになっただけだね。小学生は、進んで体を鍛えるべし。 http://www.nichinoken.co.jp/ 

まあ、マンションの分譲貸しというのも期限付きでして、親父は家を探さないといけない。入間市、所沢市、横浜市金沢区などを物色した結果、千葉県富里市の日吉台ニュータウン(JR成田・京成成田駅)に越すことになりまして、日吉台小学校→富里北中学校と変遷しました。見渡せば、造成地と、ちょっと日吉倉に入ると、スイカときゅうり畑が。さらに八街市(やちまたし)方面に行くと、落花生畑しかないような、成田市も、名物ピーナッツみそと成田山新勝寺ぐらいしか見るところがないような、陸の孤島、地の果て、ど田舎だったのです。道理で素朴なエンジニア、略してSE(笑)が育つはずです。

そして、千葉県立成田西(成田国際)高等学校、あるいは、千葉県立富里高校に受験するはずの予定が、喘息などアレルギー疾患のため、保健室受験をし、15の春(中学浪人)になり、一浪して、千葉県立千葉工業高等高等学校に昭和62年に入学しました。成田学区に、同い年の先輩がいることに自分で腹を立てて、じゃあ全県区の高校にしようと。じゃあ、コンピュータだねえ、ということで、千葉県立千葉工業高等学校(千葉市蘇我)の情報技術科にしました。情報技術科の1年間は成田から蘇我に通い、2年生からは、千葉市(緑区)古市場町(千葉印刷団地)→千葉市(若葉区)東寺山住宅(県営高層・西千葉)に転居しました。

そこで、ある授業中、古参のバーコードハゲの教師、和田何某に突然キレられました。名指しで。勘違いのとばっちりで。「横尾! コンピュータを学ぶということは! そんないい加減な姿勢じゃダメなんだ!」ってね。他にも授業中くっちゃべってる不真面目な奴がいたのにね。なんでおいらなんだ。しかも名指しなんだ。わからねえ。理不尽すぎる。とんでもないとばっちりだ、というわけで「誰が高校に行くものか」と決意したおいらは……決意、というよりは、精神にダメージを受けたおいらは、登校拒否になりました。今で言うところの「神経症」でしょうか。

その後、都合上、通信制高校がある、千葉県立千葉東高等学校(現在の千葉県立千葉大宮高等学校)通信制課程普通科に転入学するも、親の熟年離婚で、家庭環境が悪くなり、親父は母親に「絶縁じゃー!」というので、夫婦げんかが絶えず、結局、仮住まいとして、千葉市(緑区)誉田駅近くのアパートを借りることになりました。そこの住環境も悪かった(少年院を出たばかりの野郎と、その妻)が四六時中暴れる。小銭をぶちまける。言い争いの声が階下まで嫌でも聞こえる。

その後、伯母夫妻に救済された我ら親子は、兵庫県尼崎市武庫元町に引っ越すわけですが、阪神印刷株式会社在籍中に「勤労学生控除」を受けながら、兵庫県立青雲高等学校(通信制課程普通科:神戸市長田区)に通うことになり、阪神大震災に遭いましたが、4年次に学級委員長をつとめ、普通科・工業科・商業科の一部(簿記会計1)の単位を取って卒業しました。

そして大人になって、阪神印刷株式会社(尼崎市東難波町)も2000年には倒産し、じゃあ、300日の失業給付と、失業訓練給付金(当時は2か所までいけた)で、どこに行ったかというと、ポリテクセンター兵庫・情報システムサービス科(今も尼崎市武庫豊町:コンピュータを基礎から学び戻す)と、放送大学・兵庫学習センター(当時は浜甲子園:武庫川女子大学別館)だったのです。ポリテクセンター兵庫は、2014年にもマネジメント情報サービス科(Java基礎と、弱電回路設計基礎)行きましたね。Javaはくせのある言語でして、若い人たちにようついて行かなんだ。

どうでしたか、ややこしいでしょ? ストレートな学生生活を送れていないんです。小倉生まれの千葉育ちなので、自然と「素朴なエンジニア、略してSE」なわけですよ。

そんなこんなで、いま、思い出すだけで、一気に老けた(笑)ではでは。

田所稲造 拝

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